ポーランド~クラクフ編③~

ポーランド~クラクフ編③~

※これは2019年8月のお話です

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、ドイツ語: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau、ポーランド語: Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)は、ナチス・ドイツ第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容者の90%がユダヤ人アシュケナジム)であった。

Wikipedia

その悲惨な内容や写真はテレビや他の方のブログを見れば、私なんかより詳しく載ってあるだろうから、その辺りはあまり気にせずに書こうと思う。

まず、私がここに訪れた理由は案外シンプルなものである。

なぜこんな事が起きたのか?
もっと知りたい。

これだけである。

反戦運動に参加してるわけでも、世界で起こる難民問題を勉強しているなど、具体的な何かがある訳ではない。


敢えて言うとすれば、私は広島県で生まれ育ったため幼少期から「戦争、原爆」について、小学校一年生から学校の平和学習というカリキュラムに組み込まれており、夏になると地方番組で戦争の特集が頻繁に放送されており(当時は)私の琴線に触れたのだと思う(多分・・)

中学・高校と第二次世界大戦についての本を読み漁り、日本が被害者だけでなく加害者側であることや、第二次世界大戦に至るまでの歴史など「知りたい」という欲求は常に持ち続けていた。

第二次世界大戦での被害者の正確な人数は未だ分かっておらず、5000万〜8000万人と推測されている。
そのうち民間人は約4000万人〜5000万人強。


ポーランドは総人口の約20%がこの戦争で命を奪われたらしい。
それは、ホロコーストによる「ユダヤ人の大量虐殺」があるからだ。

第二次世界大戦で日本は他国に侵略し大勢を殺した、そして空襲や原爆によって兵器を持たない民間人が一瞬にして殺された。これがホロコーストの ジュノサイド とどう違うのか。特定の種族を絶滅させるという事はどういう事なのか。

現地に行ってみたいと長年の想いがようやく叶い、私は日本人ガイドの中谷さんの話に耳を傾けた。


そもそも私はユダヤ人迫害についてヒトラーの存在ばかりに目を向けていたが、このアウシュビッツ・ビルケナウ博物館にはヒトラーの写真が展示されているのはたった一か所である。

「この博物館にヒトラーについての説明はありません。何故なら、この大量虐殺をヒトラー一人の責任と考えていないからです。」という中谷さんの最初の一言を今でも鮮明に覚えている。

第一次世界大戦で敗戦したドイツは多額の賠償金を抱え、民間人は貧しさを強いられていた。

そのフラストレーションはいつしか裕福なユダヤ人に向けられていく。
「なぜ自分たちの貧しいのに、ユダヤ人だけ裕福なのか。ユダヤ人さえいなければ、自分たちの暮らしがましになるのに」

街角のヘイトスピーチからそれは始まっていたのだ。

ユダヤ人の迫害の歴史は古く根強い。キリスト殺しと言われ、土地を持つ事を禁止され、高利貸しや芸能にしか職を得ることが出来なかったのだ。生きる活路がそこにしかなかった。
結果的に裕福になっ事でさらに妬みの対象となる。シェイクスピアの書いた「ヴェニスの商人」に寄って強欲な高利貸しと認知されてしまったからだ。

情報のない時代、噂は噂を呼び、人々の不満が一斉にユダヤ人に襲いかかる。

中谷さんが言う

「今も世界のどこかで同じようはヘイトスピーチがあります。皆さん耳を傾けましょう。そして自分の頭で考えましょう。ちょっとしたヘイトスピーチから、このような大量虐殺に発展していく事があるのです」

同じ状況下に生まれていれば私も街角でヘイトスピーチをしていたかもしれない。
私利私欲のために隣人をドイツ兵に引き渡していたかもしれない。

自分の中の、その感情を探してみたが触れては離れてを繰り返すのは、わたしが平和な時代に生まれたからだろう。

「ユダヤ人は害虫だ」という街角のヘイトスピーチはそのあと本当にジェノサイドに発展し、
その時に殺害に使用されたのが害虫駆除に用いられる「チクロンB」によって100万人以上が大量虐殺された。


ヨーロッパ各地から窓もない列車に詰め込まれ収容所に着くと「働ける者」「働けない者」と命の選別が行われた。

幼い子どもと母親、病人、老人は労働力にならないという理由で、そのままガス室に送られたらしい。
この時にガス室送りになった人たちが集団パニックにならないように、「シャワーを浴びるだけ」だと説明され音楽まで流れていたという。ガス室に入れるまでの作業は囚人の中から選ばれた同じユダヤ人である。

できるだけドイツ兵に負担がかからないように、死体の処理も囚人に行わせていた。

当時ガス室に送る役目だった囚人が後に生き残り、語った話がある。
「幼い子どもを連れた母親たちはこれから自分たちの身に起きる事が分かり恐怖でパニックになりかけていたが、その傍らで子どもは泣くこともなく、じっとしていた。母親の様子を見てこれから自分たちの身に何が起こるかを分かっていたように思う」と。

確かに、当時の写真に写った子どもたちの写真が何枚も展示されていたが、泣きわめいている子どもの写真は一枚もなかった。

収容所に送られ靴もメガネも義足も全て取り上げられる。小さな靴が幼い子どもがここから二度と出ることが出来なかった事実を突き付けてくる。

直ぐにガス室送りにならなかった人たちは、そのあと強制労働が待っている。

まともな食事も与えられず、さらには食事を配給する係は同じ囚人が行うため配給係は自分の食事を多くとれるようにするため、そこに力関係が生じる。生き残るために。

中谷さんからこんな質問が投げかけられた。
配給係の中でも平等に配っていた人もいました。自分の取り分を多くしないためにどうやったと思いますか?と。


その配給係だった方は解放されたあとに、誇らしくこう語ったという。
「配給係は先に自分の食事をしたあとでで残りを他の者に配っていたが、自分は先に皆の分を配り最後に自分の食事を取った」

自分だったらどうするだろう。毎日強制労働で食事も睡眠も削れれている中で空腹に耐えれるとは到底思えない。
皆が見ている前では平等を装いながら自分が食べる分をこっそり懐に入れてしまうと思う。

そこまでして生きていたいか?と思うかもしれないが、極限状態になったら自分がどうなるのなんて分からない。


「自分で何かを選択できる」という事に感謝しながら生きていくしかないのだ。

続く

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