ベルリンの壁

ベルリンの壁

2018年8月。私はドイツの旧首都ベルリンへ行った。

私が中学1年生の時に「ベルリンの壁崩壊」が連日ニュースで取り上げられていたが、当時から興味があったわけでもなく、大人になってからも特に気に留めた事もなかったのだが、各国を旅行するにあたり、歴史について書籍などを読み進めていくうちに「ベルリンの壁」についてぶち当たり、「なぜ」が大きくなっていったのだ。「なぜ」は書籍やウェブサイトを読めば分かるのだが、私は現地主義のため、気になったら即フライトである。

ベルリンの壁は現存しているのは3カ所あり、2つは博物館のその一部だけが展示されている。全長1.3キロに続く壁は今ではこのイーストギャラリーだけになっている。

ベルリンが東西に分断された時、「東ベルリン」「西ベルリン」と一般的には呼ばれていたので誤解している人も多いかもしれないが、ドイツ全体が分断されたのではなく、飛び地状態だった「ベルリンのみ」が分断されたのだ。この話をしているといつも思いだすのは香港である。香港も元は中国の飛び地であった、イギリスに占領され独自の文化が出来上がった場所である。

ベルリンに話が戻るが、「ベルリンの壁」は第二次世界大戦終結後に敗戦国となったため、社会主義国家の旧ソ連と、資本主義国家のアメリカ、フランス、イギリスによって、分断された。私が生まれる前の話しなので、物心ついた頃には「そういうもの」としての認識しかなかった。当時はこれから100年は崩壊される事はないと言われていた壁が1989年11月9日に崩壊したのだ。

ベルリンが東西に分かれて統治されていた当初は、比較的言ったり来たりは可能であったらしい。先ほども述べたように、西ベルリンはアメリカ、イギリス、フランスが統治し復興支援を行うこどで、どんどん経済成長を遂げてゆく。一方で東ベルリンはソビエト連邦から戦争の賠償金をどんどん搾取される。

人は職業や自由を求め、西に流れこんでいく。その数、約350万人以上にのぼったとか。人口流出を防ぐためにソビエト連邦が取った措置が「ベルリンの壁」だった。

建設工事は突然はじまる。何事かと様子をうかがう市民たち。

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その壁は、フランスのセーム側沿いや中国の長江を境につくられたようなものではなく、ジグザグに、家をだたら目の前の道路は「東」といった具合に、突然家族や親類、友人と会えなくなったのだ。分断された地下鉄の路線は東ベルリンにある駅には停車せず、無人化した駅ができ、母の葬儀に出席すらできず、子どもや友人の緊急事態に駆け付けられない。

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150㎝の私の身長でさえ、一見すると登れそうな高さの壁。たが、壁の上は手が滑るように丸くされ、当時は有刺鉄線が張られていた。それを超えれたとしても、下には地雷や犬が放たれ、警備隊に射殺されるのだ。壁は2重に作られており、壁と壁の間に入った人間は射殺してもよいとされていた。

ある一人の青年が監視の目をくぐり抜けて、東側の有刺鉄線まで辿りついた瞬間、西の憲兵に撃たれたという事件があった。彼は有刺鉄線に絡まり撃たれているため身動きが取れない。市民が大勢駆けつけ西の兵士に助けを求める。

西の兵士は東側との衝突を避けるために、なにもできない。そうしている間に彼は出血死してしまった。

市民の暴動が始まる。失ずにすんだ命である。政治によって理不尽に奪われた市民の生活。(当時ベルリンの壁は冷戦の象徴でもあった。)暴動は東ベルリンの議事堂に押し寄せる。それをなんとか沈静化しようと一部の人間は行き来できるようにしたらしいが、その手続きは相当大変で高額だったらしい。

ついに市民の不満は頂点に達ししたため、内務省では新しい旅行に関する政令案の作成作業が進んでいた。色々な案が飛び交っていたが、その中に東西統一は一切入っていなかったという。東から西に旅行する事も禁止されていたため、西にいってもいいが、一度出たら2度と西に入れないなど、理不尽だらけの政令案が飛び交い混乱していた。

そして、ついに法令の発表の日、混乱中の議会で決まった「外国への旅行の自由化の政令」についてドイツ社会主義統一党書書記長がについて詳細を理解していないまま記者会見で発表してしまったのだ。

ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」本来はここに「ベルリンの壁」は含まれていなかった。もはや撤回の余地はない。市民は一斉にベルリンの壁に大挙し壁を壊し始める。長年の悲しみ、恨みを晴らすように。壁を越え、28年間もの間会えなかった人に触れ合う人々。

その時の気持ちなんて私には分かりようがないが、今コロナによって気軽に人に会える機会はなくなった。当時と違いデジタルの発達により、チャットやウェブ会議で遠くにいても顔を見て話しをする事はできる。

でも、本当に会いたい人とは、同じ場所、同じ空気の中で触れ合う事がいかに貴重な事であったのかは日々感じている。もっと言えば、喋らなくていい同じ場所で同じ風景を見れるだけでもいい。

日常とは「なにか」によって、突然と奪われてしまう。

人によって、ウイルスによって、災害によって。。。

叶うなら、私は生きている間に会いたい人に一度でもリアルで会える事、行きたい場所に行って身体で感じる事を望む。

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