ポーランド~クラクフ編④

ポーランド~クラクフ編④

※これは2019年8月のお話です

アウシュビッツ・ビルケナウ博物館は「アウシュビッツ収容所」と「ビルケナウ収容所」と2つあり、その間の距離は3キロほど。無料のシャトルバスに乗って移動するようになっている。

「アウシュビッツ収容所」は各棟の中の展示物を見ながら中谷さんの説明を聞くのだが、「ビルケナウ収容所」はユダヤ人を輸送した列車と行き止まりのレール、破壊されたガス室跡を黙々と見て回る。

そのため、「アウシュビッツ収容所」の見学後に小休憩があり、そこで見学を終える人も多い。
2か所どちらも見学すると大体4時間~5時間ほどかかる。

「ビルケナウ収容所」の入り口

ヨーロッパ各地から窓もない列車に乗せられ行きつく最後の場所。
列車のレールはここで終わっている。

入口の上は監視塔になっている。

監視塔からの眺め

監視塔に登ると中谷さんから「監視側の眺めはどうですか?」と聞かれたが、全員押し黙っていた。
当時もし自分がここに配属されていたら支配者にでもなった気分になっていたかもしれないと思うとゾッとする。

ユダヤ人を輸送した列車

中谷さんに「映画や書籍で家畜用の列車に乗せられた」と読んだことがありますが、これがその家畜用の列車ですか?と聞くと、「いえ、窓もないのでそもそも生き物を運ぶ貨車ではないでしょね」と冷静に言われてハッとする。窓もなく、水も食料もないまま運ばれてきた人々。
列車が収容所に到着したときには多くの人が既に死んでいたらしい。

ガス室と焼却炉跡

ガス室で殺されたあと、死体はドイツ兵の負担を軽減するため、同じ収容者のユダヤ人たちの手で焼却炉で焼かれた。

証拠隠ぺいのために破壊されたガス室跡

瓦礫となったガス室跡

敗戦のとき、連合軍にバレないように敗戦間際にドイツ兵が証拠隠滅のため爆破されたガス室跡。

地下に続く階段があり、その先で服を脱がされ「シャワーを浴びる」と言われて入らされた部屋で、殺虫剤であるチクロンBが天井から入れられ多くの人が死んでいった。一瞬で死ねるわけではなく、約20分間悶え苦しみながら最後は窒息していったらしい。

そしてこのガス室跡は「土に変えす」というユダヤ人の考えを尊重し、今後も一切手を加えないとのこと。

ユダヤ人が収容されていたバラック

この一段で5人くらいが寝起させられていたらしい。板で区切られただけの質素な造り。冬は防寒もされていないため、どれだけ寒かっただろうか。

バラックの壁に描かれた絵

このバラックにも子どもが収容されていたため、大人たちが少しでも恐怖心が和らぐようにと絵が壁に描かれていた。

不衛生な手洗い場やトイレ

手洗い場やトイレに行っていい時間は決められており、あまりに不衛生だったためドイツ兵も近寄らなかったとのこと。
そんな中、出産した女性がどうにか生き延びてほしいと、産まれた子どもをトイレに隠したらしい。
中にはあまりに不憫に思ったドイツ兵がトイレから助けた子どももいたと中谷さんが言っていた。

バラックの跡地

当時は300棟以上のバラックがあったらしいが、ドイツ敗戦後に生き残り解放されたユダヤ人が自分の家に帰ろうにも、家を略奪されてしまい行き場をなくしてしまい、またこの収容所に戻ってきた人も多かったらしい。その時に冬の寒さをしのぐため、バラックを壊し薪として使ったので当時のバラックはほとんど残っていないと中谷さんが説明してくれた。

中谷さんが教えてくれたのだが、広島の原爆資料館をリニューアルする際に当時の館長が見学に来たらしい。帰国したら原爆資料館に行って見ようと思った。私がこのビルケナウ収容所に来るきっかけになったのは、広島県に生まれ育ち原爆というものを幼少期から教え込まれたてきたことで、第二次世界大戦について知りたいという気持ちが途切れなかったからだ。原点回帰。

学生時代から一度は訪れてみたかったアウシュビッツ・ビルケナウ収容所は、映画や本で見ていたものよりも生生しく、凄惨だった。そして、あまりに静かだった。こんなに多くの人が見学に来ているのに、静寂なのだ。静寂の中で、どうか理不尽に奪われていった尊い命が、今は飢えも寒さも痛みもない場所で安らかに眠ってほしいと祈ることしかできなかった。

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