ポーランド~帰ってきたワルシャワ編③

ポーランド~帰ってきたワルシャワ編③

※これは2019年8月のお話です

ワルシャワの旧市街を見て回った後は、ワルシャワ蜂起博物館へ。

第二次世界大戦でナチスドイツによって占領されてポーランド。そんな中ワルシャワでレジスタンスや市民が立ち上がりナチスドイツと闘った。圧倒的なドイツ軍に敗れワルシャワの街は跡形もなく崩壊され瓦礫の山になった。ワルシャワ蜂起博物館では1944年に起きたワルシャワ蜂起の内容を映像や写真などで見て回る事ができる。

ワルシャワ蜂起記念碑

博物館までは地下鉄よりトラムの方が行きやすいのだが、相変わらずバスとトラムが苦手な私は途中まで地下鉄で行きとこから徒歩で向かった。途中大きな彫刻が目に飛び込んできたのだが、どうやらワルシャワ蜂起の記念碑らしい。

後で調べて分かった事だが、この記念碑が建てられている後ろにある建物は最高裁判所だった。

この記念碑の近くに実際にドイツ軍から逃げる兵士がつかった下水道に繋がるマンホールがある。
闘いは63日間。その間の死者は約20万人。しかも、ワルシャワ蜂起はドイツと敵対する旧ソ連がポーランドにけしかけて始まったにも関わらず、戦闘になるとソ連からの救援は全くなかったらしい。

ワルシャワ蜂起博物館

博物館につくと広場に若者が多くいる。引率の先生らしき人がいるため学校の授業の一貫なのだろう。私も小学4年生の時に広島の原爆資料館

ホテル近くのカフェ 撮影:モモンヌ

ワルシャワ最初の観光は旧市街地(オールドタウン)散策へ

さて、肝心のワルシャワ観光をどうすかだが、まずは旧市街のワルシャワ歴史地区を見て回ることに。

第二次世界大戦でワルシャワは建築物の約84%を失い、戦後はソビエト流の街に作りかえる計画だったが、ワルシャワ市民達の手によって当時の街並みを再現する事になったらしい。

旧市街マーケットプレイス 撮影:モモンヌ

驚いたのは当時の街並みが寸法も含めて再現されている事だ。

なぜそれが出来たかというとワルシャワ工科大学の学生達が残した3万5000枚にも及ぶ建物の図面や壁の装飾や建物内の階段の構造のほか、中には実寸大で記録されたスケッチが残されていたからだ。

ナチス・ドイツに占領される中、大学の講師が生徒と協力して膨大な図面や写生、絵画を命がけで書き残し、戦後にポーランド市民たちが瓦礫から煉瓦を再利用しながら街ごと厳密に再現されたのだ。

人々の情熱はこうやってバトンで繋がれていくものなのだろう。

復興の際に掲げられた信念は「意図と目的をもって破壊された街並みは意図と目的をもって復興させなければならない」というもので、また理念は「失われたものの復興は未来への責任である」というものだったそうだ。

旧市街の広場は多くの観光客で賑わっており、人形劇の路上ライブや、画家たちが絵を売っていたり、戦争の傷跡さえ感じさせない。破壊したのはナチス・ドイツや旧ソ連軍であったが、侵略されたポーランド人たちは市民が未来への責任を果たしたのだ。情熱と愛情によってこの旧市街は存在しているのだと思う。

余談だが、最初にワルシャワに到着した日に予約していたホテルが無かったという珍事件が発生し、のちに問い合わせたら住所の記載を間違えていたとのことで返金していただいたのだが、今回はこの旧市街地の近くのホテルを予約しており、意気揚々とそのホテルにいくとやはりホテルが存在していなかったということを今初めて話す。※一回目にホテルがなく腹痛を抱えて路上を彷徨い、優しい紳士に国際ホテルを案内してもらいチェックインできたはいいが結局病院に緊急搬送されただけでお腹いっぱいなので、クラクフから戻って次に予約していたホテルも実はなかったという話をするのに3年越しとなってしまった(笑)もちろん家族も友人もこのブログを読まない限りその事実を知る事はない!

消えたシャツ

因みに観光に行く前にまだ一度も手を通していなかったお気に入りのシャツを着てキメキメポーズで写真を撮って浮かれていたのだが、旧市街を散策してホテルに戻ったら見事のシャツが無くなっていた。

ホテルもシャツも神隠しあうのか?ホテルはもういいけどシャツはお気に入りだったので戻ってきてほしい。

ホテルで決めポーズを撮る恥ずかし私
旧市街散策中の私

旧市街を散策中に厚くなったのでシャツを脱いで腰に巻いている証拠写真を見つけたのだが、確かこの日は風がとても強かったので、何かの拍子で腰に巻いている結びが緩み風に飛ばされていったのだろう。。。

偏西風によって日本まで飛んできてくれることを願う。見つけた方はこっそり連絡をしてほしい!

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